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妙金寺について

妙金寺縁起

むかしむかし(1265年)日蓮大聖人がこの宇都宮の地に辿り着いた時、君島備中守(きみしまびっちゅうのかみ)の館を一宿一飯を求められて来られたそうです。

その際、君島備中守の母は大聖人に帰依して弟子にして欲しいと乞い願ったところ、快く承諾をされたそうでございます。

大聖人は御本尊を2幅授け、剃髪させ、僧衣を与え、「妙金」という名前を与えられました。

後に(1307年)、君島備中守は母「妙金」が亡くなり、妙金尼菩提の為に寺を建立し、大聖人の孫弟子(九老僧)である摩訶一阿闍梨日印上人(妙金寺開山聖人)をお呼びして、開堂供養の式を営み「法光山 清光院 妙金寺」と名付けられました。

その後も第2世日静上人(足利尊氏の叔父)等が歴世を重ね、関東日蓮宗の重鎮として栄え、代々宇都宮城主の祈願寺としての役割を果たし、開基以来750年,第37世日慈まで法灯を継承しております。

※『日蓮大士眞實傳』を参照

「夜光の曼荼羅」「おしどりの曼荼羅」

その昔、妙金寺の墓地には大きな沼があったそうです。
その沼は夜な夜な不思議なことが起こったと伝えられています。
 
 
代々口伝で伝わる伝説によると、俗にいう「人魂」に似た妖しい光の塊が沼を照らしていたようです。
近所に住む人や檀家の者たちが、「妙金寺は幽霊の出るお化け屋敷」だと言うほどです。
 
その時の住職は原因究明をすべく、沼を調べていたところ、沼の底に大きな石があり、その石の下には桐箱が埋没されておりました。桐箱の中身は厳重に厳重に幾重にも梱包されており、中身を確認してみるとそれは行方不明になっていた日蓮大聖人御真筆の十界大曼荼羅御本尊でした。

ここから先は歴代の住職の推測ですが、昔激戦の兵火から時の住職がこの大聖人御真筆の御本尊を守ろうとしたときに、持って戦火から逃げても守れる保証はないので、ならば沼の奥底へ沈めて格護せんとしたのではないかとのことです。
 
この因縁によって、「夜光の曼荼羅」また、昔はその御本尊が常に本堂に2幅並んで奉安されていたため「鴛鴦(おしどり)の大曼荼羅」と呼ばれ今でも妙金寺の寺宝として、そして日蓮宗の宗宝として本堂に奉安されております。

なお、2幅のうち1幅は妙金寺の本山である大本山京都本圀寺にございます。1536年7月、京都の日蓮宗寺院が全て焼き払われるという法難がありました(天文法華の乱)。天文法華の乱で全てを焼失してしまった本圀寺に本堂や御本尊がないというのは耐え難いということで、時の住職が本圀寺へ御本尊を寄進し、妙金寺の檀家さん達が京都へ行き本圀寺復興のお手伝いをしました。当時の本圀寺住職より頂いた感謝状が残っており、そちらも妙金寺の寺宝として今もなお現存しております。
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